木曽三川(木曽・長良・揖斐)のうちの長良川を訪ねようと思い立ち、東海道新幹線に乗車。名古屋駅まで1時間半、名古屋駅から20分で岐阜駅に到着。東京から近いので驚く。
「岐阜市にて」(中山道 加納宿)
岐阜駅のすぐ近くに「加納宿」という旧中山道の宿場跡があったので石碑を撮影。皇女和宮もお泊まりになったらしい。中山道の宿場は以前からいくつも見学しているので、この場所も説明板などを含め何枚か撮影。中山道宿場コレクションに加えることにする。

加納宿脇本陣跡

皇女和宮御仮泊所跡
(和宮御詠)
・惜しましな 君と民との
ためならば 身は武蔵野の露と消えても
・落ちて行く 身としりながら
もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ
(意に添わぬ婚姻に向かう和宮の絶望的な気持ちが今も切なく胸を打つ)
(川原町 鵜飼観覧船乗り場付近)
「川原町」は「湊町・玉井町・元浜町」の通称で、長良川鵜飼観覧船乗り場からすぐのところにある町並みを指すらしい。昔は水運で栄えた川港だったそうで、平屋建て、格子戸が続く風情ある町並みはいかにも豊かな感じがする。軒下には「岐阜提灯」が飾られ、特産の「岐阜うちわ」を制作する店や「鮎菓子」を扱う和菓子店、本物の鮎を食べさせる店もあり、新・旧取り混ぜて全体に落ち着いた雰囲気を醸し出している。夜、赤松が燃えて浮かび上がる鵜飼い漁は幽玄の世界だった。見上げると空には雲と月が。満月でなかったことが残念だが、長良川の流れに、城までそびえて雲と月がかかり・・・旅のフルコースを味わった思いになった。
(岐阜城 信長も眺めた美濃の町)
金華山ロープウェイで岐阜城近くまで上がる。「近くまで」と表現したのは、岩山に築かれた岐阜城へ到達するには、ロープウェイの終点から更に山道を数十分登らねばならいからだが、一体昔の人はどうやってこのがたがた道を歩いて城まで資材を運んだのだろうか。あまりの道の悪さに、現代人の我々は早々に岐阜城到達をあきらめ、クーラーが効いた展望台へ逃げ込む。展望台からの市内の眺めは「信長もかくや」というほどにすばらしかった。難攻不落として知られたこの城は斎藤道三の居城であり、後に織田信長が攻略して「岐阜城」と改めたのだそうだ。当時岐阜城下では楽市楽座で大いに賑わったという。因みに現在の城は昭和31年に再建されたもので、岐阜市のシンボルとして市民に親しまれている。

展望台より
岐阜城下を臨む
「関市にて」
関市の板取という場所にある、通称「モネの池」へ行く。
山の中の小さな神社の境内にあるその池は、もともとは近所の篤志家が雑草を苅ってスイレンやコウホネを植え、そこへ別の住民が錦鯉を寄付してエサやりをし、周囲を掃除して管理をした、つまり「郷土愛と住民の善意」が集まったごくごく普通の池だったという。違っていたのは、この池を満たす湧き水が「高賀山」という流紋岩で構成された山から流れ出ていたことで、養分が少なく従って微生物が育たないその水は、結果として透明度が非常に高い美しい池を創ったのだという。透明度が高い水は太陽の光にさまざまに反射し、錦鯉やコウホネやスイレンの花が写真に映える効果を呼び、やがてSNSで拡散していつしか「モネの池」と呼ばれるようになり・・・シーズンには車が渋滞するほど有名になっていったというわけだ。
と、まあ、こんなに長い説明をしたというのに、この日は花の季節も終わりに近く、昨夜の雨で水も濁ってしまい「モネの池」にはほど遠い「行ってきました」の記念写真になってしまった。残念!!

モネの池
「郡上八幡にて」
町に寄り添うように流れる吉田川(長良川の支流)のせせらぎ。川面をわたる風に吹かれて歩いていたら、民家の軒下の風鈴が「チリン」と揺れた。こんなに心地の良い音色を聞いたのは一体何年ぶりだろう。都会に住み隣り近所に遠慮して風鈴を吊さなくなってずいぶんと久しい。川遊びの子どもたちの歓声が聞こえる。郡上踊りのお囃子も軽やかだった。「郡上八幡」は美しい音色が聞こえる町だった。楽しいお囃子が聞こえてくる町でもあった。水場で湧き水を飲んだら美味しくて「ディスカバー・ジャパン万歳」と言いたくなった。
「そうだった、鮎の町だった」とあらためて気がついた。