「西郷どん」の京都


 京都といえば桜に紅葉。うす紅色のしだれ桜が春風に吹かれてはかなく揺れる姿も美しく、また裾から染め上がった嵐山が日に照らされて錦に輝く様の何と艶やかなことか。
と、まあ金太郎飴のようにどこをとっても雅が出てくるのが私の京都へのイメージでした。  しかし応仁の乱から550年、明治維新150年。「鳴くよウグイス平安京」の遷都以来「1000年の都」は実は何度となく政争を繰り返し、男たちが歴史を塗り代えてきた、したたかで
革新の場所でもあったのです。
 この町を駆け抜けた志士たちの足跡を訪ねる旅は、まるで今にも彼らの息づかいが聞こえてきそうな、熱くて興味の尽きない旅でした。




清水寺 成就院 (じょうじゅいん)

清水寺の塔頭。仁王門の横を少しだけ奥に進むと、ひっそりとそこにあります。
「月の庭」と呼ばれる庭園で有名なこの寺、幕末に西郷隆盛とこの寺の住職の月照上人が友情を交わしたことで 知られています。

(時代)日米修好通商条約・安政の大獄 1854〜1861くらいまで

ペリーが来航し、翌年に日米和親条約が締結され、幕府が外国相手に大騒ぎをしていた頃、国内は13代将軍・徳川家定(いえさだ)の後継問題で揺れていました。後の15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)を押す一橋派(島津斉彬など)と、対して14代 将軍となる家茂(いえもち)を押す南紀派。西郷は一橋派の島津斉彬の命を受け東奔西走し、その途上で勤王の僧・月照上人と知り合ったと言われています。

1858年(安政5年)南紀派の井伊直弼が大老に就任。すると直弼は孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を結ぶとともに、14代将軍を家茂に決めてしまいます。

島津斉彬は直弼の行動に怒り、挙兵して幕政改革をしようとしますが突然の病死。西郷は大きな後ろ盾を失ってしまいます。

同年秋、安政の大獄が始まると直弼のやり方に批判的だった月照上人は追われる身とな ります。西郷は薩摩藩に月照上人をかくまってもらおうとしますが、斉彬のいなくなっ た薩摩藩はこれを拒否。同志を見捨てることができなかった西郷は、月照上人とともに錦江湾に入水(じゅすい)し、月照上人は亡くなり、西郷は奇跡的に助かります。

この事件の後、西郷は奄美大島に送られ、3年間ほど島で生活をします。
奄美の静かな部落に、今もひっそりと島女房の愛加那と過ごした家が残されています。以前見学したことがありますが、TVドラマ以上のドラマの果てにあそこへ送られてきたのかと今になって知る歴史の流れ。ぼんやりと観光客として見物してしまったことが悔やまれますが、何も知らぬ気な美しい奄美の海でした。




大黒寺 (だいこくじ)

(時代) 第一次寺田屋事件 1862

伏見にある寺です。あまり大きくありませんが、薩摩藩の祈祷所となっていたため西郷や大久保利通が訪れ、時には泊まって国事を語り明かしたと伝えられています。西郷はこの寺の庫裡(くり)の欄間(らんま)の龍の彫り物をとても気に入っていたそ うです。
この寺には、寺田屋事件(坂本龍馬が襲われた事件とは違う)で亡くなった急進派の薩摩藩の志士の墓があり、墓石には西郷が書いたと伝えられる名が刻まれています。志士の墓に向かい会うように江戸時代に木曽川治水を行った(幕府に請け負わされた)薩摩藩家老平田氏の墓がありますが、この墓を見るにつけ、こういう薩摩藩への締め付けが後に倒幕に向かったのかもしれないと、理解できる気がしたものです。木曽・長良・揖斐の川の名は小学校で必ず習いますが、その治水工事を薩摩藩が請け負ったということまではなかなか教えてもらいません。




蛤御門 (はまぐりごもん)

(時代) 蛤御門の変 1864~1866くらいまで

1864年長州藩が京都に出兵し、蛤御門周辺で会津・薩摩藩などと戦って敗れた事件。 長州藩は御所に発砲したため朝敵とされ、幕府は長州征伐に乗り出しますが、軍参謀だった西郷の奔走で交戦することなく終結。その後、そのときの措置を巡って薩摩藩と幕府の関係が悪化し、薩摩藩は長州藩と和解するべく坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で薩長同盟を締結。これにより歴史は一気に倒幕へと動いていきます。




二条城 (にじょうじょう)

(時代) 大政奉還 1867

幕府は2度目の長州征伐を企て、薩摩藩に出兵を要求しますが、薩摩藩は薩長同盟を理由にこれを拒否。幕府は敗退し、倒幕への機運が世に高まっていきます。そんな世相の1867年10月、15代将軍徳川慶喜はここ二条城に於いて大政奉還を表明。続いて王政復古の大号令が出され新政府が成立します。
ずいぶん寒い日でしたが、二条城はこの日外国からの旅行者で大賑わい。
観光客の姿やにぎわいも時代によって随分違う。鎖国、開国、そして現在の日本と、思えば観光こそ外交の流れを映し出す鏡なのだと実感する光景でした。




東寺 (とうじ)

(時代) 鳥羽・伏見の戦い 1868

東寺は京都のシンボルタワーのような存在ですが、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩の本陣になったとは、恥ずかしながら知りませんでした。
1868年 旧幕府軍は大軍を率いて京都郊外で新政府軍と衝突。いわゆる鳥羽・伏見の戦いです。薩摩藩は本陣をここ東寺に置き、西郷はこの塔の五層部分に上り指揮をとったと伝わっています。何度も京都を訪れていますが、東寺を訪れたのは初めてでした。ちょうど冬の特別公開の期間中で塔の初層を拝見できましたが、大日如来に見立てた心柱を囲む仏様たちに圧倒されました。日本人として、この戦いでも先の戦争でも京都が焼けなくて良かったとつくづく思いました。しだれ桜も有名でJRの広告にも使われています。




東福寺 即宗院 (そくしゅういん)

(時代)鳥羽・伏見の戦い後

紅葉の名所ですが、即宗院は人で賑わう通天橋周辺とは別の、ずっと奥まった静かな場所にあります。この即宗院は薩摩藩と縁が深く、薩摩藩の畿内菩提所とされて藩より70石の米が施入されていたそうです。十の字が書かれた火鉢など薩摩藩ゆかりの品が様々残されています。また、鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の屯営が置かれ、裏山には砲列が敷かれて幕府軍に向かって砲撃が加えられたと伝えられています。
維新後、この戦いで亡くなった524名の名が刻まれた碑が裏山に築かることになり、西郷は沐浴潔斎して524名全員の名の揮毫に臨んだそうです。


旅を終えて

 大河ドラマ「西郷どん」が始まったのをきっかけに、冬の京の特別公開のうち薩摩藩と縁が深い寺をあちこちまわってみました。小競り合いを繰り返していた志士たちが、倒幕に向かってひとつになっていく様子は、小川が大河に合流していくようなイメージでしょうか。やはり、明治維新は国の根幹を左右する、大変エネルギッシュな出来事だったのだと改めて思いました。
 そして西郷隆盛の何と義に厚く、生き方の不器用なことか。「入水」に「島流し」、西南戦争の結末を予測しているかのような若き日の彼の生き方に、判官びいきの日本人は共感を覚えるのかもしれません。
 
 こんな風にテーマを決めて廻る旅は知識も興味も深まります。大変お勧めです!



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