タクシー運転手さんに聞く

大船渡の復興? 高田にくらべたらまだまだだね。
ほら、あそこで工事をしてるでしょ。あれは嵩(かさ)上げ工事。あの土地の嵩を上げて、道を造って、そこに建物を建ててね。何しろ商店街がひとつなくなっちゃったんだから。マイヤ(スーパーの名)もなくなっちゃったし。お客さんの泊まったあのホテルも被害を受けてね。そう今はたぶん仮営業。いずれこっちへ移るんじゃない?海からずっと離れちゃうけど商店街になるんだと思うよ。でも復興は高田よりずいぶん遅れているね。
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えっ、わたし? わたしも被災しましたよ。今でもね、震災のことを思い出すと頭が痛くなるんです。それにしょっちゅう夢を見ますよ。夢でうなされるんです。
3月11日の2時46分(すらすらと数字が出る)にはね、わたし仕事をしてました。地震があったとき、何かあったら会社に戻ることになっていたからね、すぐに戻ったんです。だけど同僚とふたりっきりで。「どうしようか」って話してて、ふっと後ろを見たら真っ黒な壁のような塊がこっちに向かって走ってくるんですよ。その壁のてっぺんが白く波打っていてね。「津波だ!」って叫んですぐに車に乗ってね。でもね、すぐに追いつかれて。車を捨てて逃げました。TVの映像でも津波の様子は随分やったけど、全然違うね。本当に恐ろしいものですよ。
逃げるっていってもね、水の中を歩くんだから、なかなか進めない。
ふと横を見ると女性をふたり乗せた車がぷかぷかと浮いているんですよ。わたし、車の窓をこつこつと叩いてドアを開けて降りるようにと身振りでね、教えました。
えっ いくつぐらいだったかって? そうですね、20代だと思うけど。
そんなに若いのに自分で逃げられなかったのかって?きっと放心状態だったんだね。車から出ても歩けなかったですよ。わたし、ふたりを抱えて歩きました。重くて重くて、この手を離してしまおうかと何度思ったか。でも放せなかったですよ。
ようやく小さいビルを見つけてね、入り口で何度も叫んでやっと2階から顔を出してくれた若い者に階段をひっぱり上げてもらいました。そこに少しいて、それから3階建てのもう少し大きなビルに移り、屋上に上がって潮の引くのを待ったんです。屋上にいたのは全部で21人(すらすらと数字が出る)。女性を中に入れて、周囲を男たちが囲って座ってね。風があたる場所は厳しいのでその場所は男たちが時間で交代して互いに庇いあってね。もう大丈夫と思って下へ降りたら周りが暗くなっていた。大変でしたよ。
えっ 助けた女性にお礼を言われたかって?それはなかったなあ。でも、こちらにもそういうことを思う心の余裕、あの時はなかったんだよね。お客さんの言うとおり、今頃になって「ありがとう」って思っていてくれるかもしれないね。
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わたしはね、三陸鉄道で通っていたんだけど何しろ津波でやられてしまったでしょ。だから歩いて帰ったんです。線路に沿ってずっと歩いてトンネルに入ってまた出てね。家に着いたときは夜も更けていて孫はもう寝ていました。孫の通う小学校も被災したけれど孫は無事に帰ってきたんです。寝顔を見たら涙が出そうでした(声が震える)。ああ、大川小学校?子どもさんたちかわいそうだったね。「山へにげよう」って言った子もいたそうだけど、なんで聞いてあげなかったのかね。にげていたらねえ・・・
(涙声 車中の者みんな目頭をぬぐう) |
でもね、その後わたしもがんばりました。家はプロパンだったので火が使えたんですよ。それでね、五右衛門風呂を作って周りを囲ってね、嫁さんも星空を見ながら風呂に入っていました。会社もね、社長がすぐにボランティアをしようって言ってくれて、やりましたよ。何をしたかって?病院や買い物に行くのに足がないでしょう。それで車にお年寄りを乗せて。もちろん、ただですよ。でも、希望者が多くなっちゃって。少しもらってもいいかな、なんて話したりしてね。
えっ?こういうこと記録しておいた方が良いって?ええ、NHKの何とかいう出版部に記録してもらいました。TVに出て話したこともあります。
わたし、今になって思うんですけど、「絶対に生き抜くんだ」っていう強い意思ね、いざというときにそれがあるかないかは大きいねえ。
あっ、駅が見えてきましたね。いろいろ話したけど気をつけて帰ってくださいね。
はい、わたしも体に気をつけます。それではお元気で。 
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