傾きかけた太陽の光が櫛の歯の欠けたような防風林の隙間から差し込み、夕暮れ近い荒浜地区は哀しかった。
以前ここは新興住宅地だったと聞いていたが、今この地に形あるものは何も無い。辛うじて流されずに残っているしゃれた門扉の残骸だけが、若い家族の姿を想像させて切なく胸に迫る。
海岸近くに津波にやられて廃校になった中学校があった。あの日、この学校の用務員さんが、道ばたにしゃがみこんでいるお年寄りを見つけて背負って逃げたのだと、知人だというタクシーの運転手さんが話してくれた。そういえば、その運転手さんの家も全壊したとさっき車の中で聞いたのだった。
嘘のように穏やかな海。
遠浅の海岸べりに、一抱えもあるミッキーのぬいぐるみがポツンと置かれていた。汚泥の中から家族が探し出したのだろうか、ミッキーの可愛らしい顔が泥に染まっている。傍らには菊の花束。花が新しいところを見ると、親御さんが毎日のように手を合わせに来ているのかもしれない。
「寒かったね」「怖かったね」 見知らぬ女の子にそう言ってあげたかったが言葉にならずに私は泣いた。
「家族全員無事だったのだから」「それだけで、もう・・・」 後の言葉を飲み込むように言ったさっきの運転手さんの言葉を思い出し、その言葉の重さに今頃気づいて、また泣いた。 |
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師走の日は短い。
何台もの車が海岸近くの慰霊塔に近づき、足早に降りては手を合わせ、また急ぎ足で去って行く。誰もが無言だ。この現実を前にして語る言葉が見つからないのだろう。
子供の声とともに夢や希望が一瞬にして奪われてしまった修羅のような一帯、それが荒浜地区の光景だった。
震災から2度目の夏が終わろうとしている。
今年の春には陸前高田や大船渡の小さな港を見て回った。海岸線に沿って狭い山道を上り下りしていると、ふいに入り江が現れ、壊れた堤防が目に入ってくる。案内をしてくれた知人たちは、そういう場所に車を止めて震災当時のことも話してくれた。食料を分け合った話、体で温め合って暖を取った話、見知らぬ隣人が重機を持ち出して道を作ってくれた話。話の多くは心優しい人達のことだった。しかし、優しくて哀しい話もあった。「お舅さんが心配だからちょっと家を見てくると職場を離れたきり・・・・戻らなかった」と。
こうした話を「忘れてはいけない」と私は思った。「忘れずに伝えていくこと」 それが、突然明日を断たれた人達に対して我々ができるせめてもの供養だと思った。
昨今 「いじめ」 をはじめとして、若者の心痛む話が後を絶たない。そういう哀しいニュースを聞く度に東北の風景が心に浮かび、私は若者たちにこんな風に語りたくなる。
「君は今苦しくて思えないかもしれない。けれど、明日を迎えることができるというのは本当に素晴らしいことなんだよ。せっかく明日に続く道を持っている君だもの、今日一日を頑張ってみよう。そして、その先の美しい朝焼けを見上げてみよう。明日になったら君は悩みを乗り越えられるかもしれない。明日にはそんな無限で不思議な力があると信じて・・・今日一日を生きてみよう」
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大船渡夏祭り (震災前に撮影)
一日も早く大船渡港が復興し、夏祭りにはこの電飾船が海に浮かびますように。そして、イカ釣り船のたくさんの灯りが、湾と夜空をまぶしく焦がしますように。
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