軽 井 沢
その歴史と文化を訪ねる
荒井 節子
「軽井沢」と聞くと、たいていの方がうっとりと遠くを見るような目をし、それから「良いところですねえ」とおっしゃいます。「この間行ってきました」と言う方もいます。
そうです!みなさまに愛される「軽井沢」が今回のテーマ。この町の発展の様子を、歴史とともに巡っていきましょう。
あっ、「どうして歴史なのか」という質問ですか?
だって、みなさまが憧れる「万平ホテル」の前身は旅籠「亀屋」だったってこと、知っていましたか?それに、今は寂れた追分宿跡に立って風に吹かれていると、堀辰雄を知らなくたって「風立ちぬ」という言葉が口から出てきますよ。
賑わう避暑地の奧にある、もうひとつの町の姿をお伝えしたくって、軽井沢の歴史を知りに「いざ、行き(生き)めやも」です。
江戸時代 浅間三宿(軽井沢・沓掛・追分)
(軽井沢宿)
「軽井沢」は中山道18番目の宿場町です。浅間三宿のひとつとして賑わいました。
中山道随一の難所である(旧)碓氷峠の頂上から下ること1時間と少し、橋を渡るとそこが軽井沢です。橋の近くに、昔は茶屋だった「つるや」が旅館に変わって今も在ります。因みに橋の名前は二手(ふたて)橋。朝、旅人を送ってきた宿場の女たちが、ここで別れを告げて二手に分かれたのでそう呼ばれているそうです。近くに芭蕉の句碑があります。
(上)
神社の名は、熊野神社(上州)と 熊野皇大神社(信州)
賽銭箱も二つ。
京へ向かう旅人は碓氷峠を登りきった安堵のお礼を。江戸へ向かう旅人は碓氷の関所の無事の通過を願ってここでお参りを・・・
旧碓氷峠のテッペンにある神社。
階段の真中が県境になり、旅人は上州から信州へ(あるいはその逆)足を踏み入れます。
古い神社で、地元はもちろん県境マニア(そういうマニアがいるらしい)にも知られています。
「つるや旅館」 外観
変化の激しい旧軽でも、つるや旅館の周辺は宿場町のおもかげがある。風情ある旅館です。
(沓掛宿)
中山道は、次に「沓掛(くつかけ)」宿へ。沓掛時次郎の名で知られるこのエリアは、今では駅名も「中軽井沢」と名前が変わり、星野リゾートが事業を展開して人気です。
あっ、そうそう!前に戻って、夏になると若者で溢れる「旧軽銀座」も、中山道の街道上にできた町だってことを忘れていました。旧軽銀座のロータリーのところが、軽井沢宿の西の宿はずれです。
(追分宿)
さて、最後に「追分(おいわけ)」宿です。
実は、私は浅間三宿の中でもここら辺りの雰囲気が特に好きです。「あんなに寂れた宿場町のどこが?」と異論もおありでしょうが、追分は、中山道と北国街道の分岐点として昔は大変な賑わいのあった宿場です。国道の喧噪を離れた本陣跡や、脇本陣「油屋」、更に復元された高札場の風情に噴煙たなびく浅間山が色を添えて、まあ、すっかり旅情がかき立てられてしまうのです。「信濃追分」という有名な民謡が残っています。
追分に向かう途中で見た浅間山
復元された高札場
明治時代 明治17年・信越線が開通 & 軽井沢開発の祖が出現
明治17年に信越線が開通すると街道筋はすっかり寂れ、賑わいをみせた浅間三宿も寒村となってしまいます。しかし、明治19年、布教の旅で訪れたひとりの宣教師によって軽井沢はこんどは別荘地として発展していきます。
(軽井沢ショー記念礼拝堂& ショーハウス記念館)
英聖公会から派遣されて軽井沢を訪れたアレキサンダー・クロフト・ショー(カナダ出身)は、緑したたる風光が故国に似ていることに心を動かされ、2年後、茶店を買い取り大塚(だいづか)山 に別荘を建てます。
次いで誘いを受けた多くの宣教師が別荘を建てると、やがて、軽井沢で夏を過ごす彼らの精神的な安らぎの場所として礼拝堂が建設されました(明治28年)。軽井沢別荘と教会の第一号です。
旧軽銀座のはずれ、旅館「つるや」すぐそばの木立の奧に、復元されたショーハウスと、ショー記念礼拝堂があります。村人に慕われたという清潔な人柄が伝わってくる、簡素で美しい建物です。
ところで、日本人の別荘第一号はどなたかご存じですか?海軍大佐、八田裕二郎という英国留学経験のある方。明治26年のことだそうです。
雪を被ったショー記念礼拝堂
(旧三笠ホテル)
旧軽銀座のロータリーから三笠通りを北へ2キロ、右側に現れるのが旧三笠ホテル(国重文)です。明治38年に日本郵船役員の山本直良によって造られました。欧米人の宿泊用に建てられましたが、後に日本館もできて渋沢栄一や乃木希典らに利用され「軽井沢の鹿鳴館と」と呼ばれたそうです。
戦時中は軽井沢が外国人強制疎開地となり、外国大使・公使館もこの地に集められたために三笠ホテルは外務省出張所となり、近くのスイス大使館と接触しては和平への道が探られたそうです。
戦後の占領下ではアメリカ軍の休養所になった後、昭和47年ホテル営業を終了して軽井沢町に寄贈されました。
(万平ホテル)
こちらも歴史あるホテルです。旅籠「亀屋」の当主佐藤万平が明治35年に建築。戦争中はソ連・スペインなど各国の大使・公使館となり、戦後しばらくはアメリカ陸軍の専用ホテル、そして後にジョン・レノンが宿泊したことで伝説的なホテルになりました。今も多くのビートルズファンに愛されています。
重厚なダイニングルームでいただくフランス料理は、日本から失われつつある「品格」を思い出させてくれて良いものですが、食事の後、ここの土産物コーナーを覗くのも楽しみのひとつです。軽井沢名物のジャムなどに混じって、アメリカ直輸入のセーターや「軽井沢彫」の小物が飾ってあって、今にもパイプ煙草の外国人がお土産を選びに現れそうな雰囲気です。
因みに「軽井沢彫」というのは、外国人好みに創り出された家具のこと。桜や葡萄の模様が彫り込まれているのが特徴ですが、お盆や茶托などの小物もあって、こちらは値段もお手頃です。
万平ホテル 全景
軽井沢の別荘地
大正から昭和へ 軽井沢を彩った文化人たち
大正期に入ると富裕層の幅も広がり、政治家や文学者も軽井沢で夏を過ごすようになっていきます。
「憲政の神様」といわれた尾崎行雄が乗馬を日課にしていたのは大正時代。
戦前に首相をつとめた近衛文麿(このえふみまろ)の西洋風建築の別荘は、政治学者市村今朝蔵(けさぞう)に譲られたのち町に寄贈され、長倉という場所に「市村記念館」として残されています。余談ですが、近衛さんは護衛の若者に招集礼状がくると、武運長久を祈ってくれるようなお人柄だったそうです。戦後、戦犯指名を受けると、巣鴨プリズンに入所する前日に自死。戦犯指名の知らせも軽井沢で受けたそうです。
宏大な敷地の中に西洋風建物がある。
政治関係では他に白洲次郎、田中角栄。鳩山さんの別荘も少し前に話題になりましたね。真に、軽井沢は近代日本に寄り添って発展してきた町と言えるかも知れません。
次は文学者です。
(旧軽、三笠地区の文学者たち)
まず、大正時代には、やせた散歩姿を樹間に見せたという芥川龍之介。それから室生犀星。有島武郎は浄月庵と称した別荘で婦人雑誌の記者と情死をとげ、知識層に強い衝撃を残したそうです。旧三笠ホテルの近くに終焉の地の碑があります。
(中軽井沢の文学者たち)
中軽井沢といえば星野温泉でしょうか。取り壊される前の星野温泉のロケーションは素敵でした。囲まれるというより、森に包まれてそこに在った古い建物。小鳥の声が「降る」ように感じられ、幸せな気持になったものでした。
大正10年「赤い鳥」の鈴木三重吉を中心に芸術自由夏季講習会が星野温泉で開かれ、多くの文学者が集まりました。
まずは北原白秋。有名な「落葉松」の詩です。
「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。からまつは寂しかりけり。たびゆくはさびしかりけり」
落葉松林は軽井沢の象徴でした。
ほかにも若山牧水、与謝野鉄幹・晶子夫妻。特に、この地に別荘を持ったキリスト教徒で思想家、内村鑑三は星野温泉をこよなく愛し、当主に与えた「成功の秘訣」と称される生き方についてのいくつかの指針は、今も精神的支柱として星野家に大切に受け継がれています。現在、結婚式で人気の「星野遊学堂(軽井沢高原教会)」「石の教会 内村鑑三記念堂」は、星野家と内村鑑三との強い繋がりが礎になって創られているというわけです。
軽井沢高原教会
石の教会 内村鑑三記念堂
夕陽が射す時間帯が美しい
(追分け地区の文学者たち)
堀辰雄は大正12年に軽井沢を訪れて以来、毎年のようにこの地を訪れるようになり、戦争末期からは追分けに定住し、この地に建てた家で昭和28年49歳で亡くなっています。その間、門下の立原道造も追分けを訪れ「油屋」に宿を取って堀辰雄らと交流を重ねたことが知られています。
堀辰雄の代表作「風立ちぬ」は、結核で亡くなった婚約者との物語ですが、この地に立ってみると宿場跡の寂れた様子が作者自身の喪失感と重なって、昔の文学青年や文学少女がこの小説を手にして「風たちぬ いざ、生きめやも」と詠った理由が解る気がしてきます。彼が好んで散歩をしたという泉洞寺周辺の小道や石仏もお薦めです。
旧宅跡地に「堀辰雄文学記念館」が建てられて、展示室のほかに晩年を過ごした住居や書庫が残されています。
堀 辰雄 文学記念館への入り口
展示室
戦後から平成へ 長野新幹線 & しなの鉄道
さて、いよいよ戦後です。リゾートの大衆化が始まります。まずは皇室関係の話題から。
(ご成婚・テニスコート)
今上陛下(当時は皇太子)のご成婚が発表されたのは、昭和33年11月の末。折しも東京タワーが開業し、世の中が明るいムードに満ちていました。初の民間出身の皇太子妃、しかも出会った場所が軽井沢のテニスコート。「ミッチー」ブームが起こり、テニスが流行し、美智子様が頭につけていらっしゃったカチューシャまでが憧れの対象となりました。
ユニオンチャーチの向かい側にあるテニスコートは、今見ると質素な感じがして驚きます。しかし、この時期に軽井沢でテニスができた人は、やはり一部の富裕層のみ。本当の大衆化はご成婚を機に起こった軽井沢ブーム、東京オリンピック、大阪万博などを経た後のことだったかもしれません。
それにしても、私はあんなに清楚でテニス姿が似合う美しい方を知りません(あっ!伊達公子はさすがにきまっていますが)。今更ながら、若き日の天皇の慧眼に恐れ入るところです。
良きブレーンをお持ちでいらっしゃったのでしょうね。
ユニオンチャーチ
明治30年設立
キリスト教各派合同の教会
毎年夏には全国から宣教師が集まっていたが、平成20年閉校となる
日本キリスト教団軽井沢教会
明治38年、日本人向けの宗派を超えた教会として誕生。
旧軽銀座の中にひっそりと在る。ヴォーリズの設計
聖パウロ教会
昭和10年、イギリス人神父ワードが設立。アントニン・レーモンド設計。非常に人気のある教会でこの日も雑誌の写真撮影をしていた。
(旧軽井沢駅舎記念館・碓氷峠鉄道文化むら)
軽井沢駅の北口左側に、信越線当時の駅舎を記念した「旧軽井沢駅舎記念館」があります。
今もそうでしょうが、信越線当時、軽井沢駅では皇室関係の方々のお出迎えやお見送りがあったものです。私も運良くそういう場面に居合わせたことがありますが、宮様方の立ち居振る舞いは本当に見事なもの。洗練されたファッションセンスを含めてその優雅さに目を奪われたものでした。
記念館には、皇室と関わりの深い軽井沢駅ならではの豪華な貴賓室が再現されています。碓氷峠を越えるために考えられたアプト式鉄道の資料や、草軽鉄道の資料も展示されています。鉄道ファンなら「碓氷峠鉄道文化むら」と併せて見学するとおもしろいと思います。
「碓氷峠鉄道文化むら」は信越本線横川〜軽井沢の廃線跡に造られたテーマパークです。ここではこの廃線跡を利用したトロッコ列車に乗ることができ、家族連れにはお薦めの場所です。また、併設の鉄道資料館の展示施設には、目を輝かせた「鉄ちゃん」がいっぱい。大人も充分に楽しめる場所です。
トロッコに乗るのは大人でも楽しい。
この日は「ぶんかむら駅」から「まるやま」駅まで。「まるやま」駅には、あの、アブト式を支えた、丸山変電所がある。
信越線時代の特急「あさま」
この車両に乗り込み、懐かしそうな顔をした男性がいました。
この日は、高崎方面から横川まで、蒸気機関車が走っていた。
鉄道写真マニアがいっぱい。
旧碓氷峠沿いにある、通称「めがね橋」
信越線の第三橋梁です。
この橋を見上げると、かっての鉄道マンの苦労と意気込みがダイレクトに伝わってくる。
(最後に)
「長野新幹線」の開通後、軽井沢にはアウトレットも大賀ホールもできました。東京からの距離が縮まったので、東京の店では手に入りにくいものを旧軽銀座店で探すという楽しみ方さえできそうです。「大城レース」や「ちもと」の菓子や「浅野屋」のパン。疲れたら「茜屋」のコーヒーもお薦めです。
皆様、変化する軽井沢をいろいろに楽しんでください。そして、振り返ったら「幸せだったな」という思い出をたくさんつくってくださいね。そういう過ごし方が軽井沢には似合うと・・・思うのです。
ハイッ! 私も母親に手を引かれて軽井沢の一本道を歩いた幸せな思い出を持っています。木造平屋の西洋風建物、クローバーの花咲く庭。デッキで出されたミルクの美味しかったこと。今になれば贅沢でも何でもないけれど、別世界のような美しい風景の中で、間違いなく子供の私は、その時幸せだった気がするのです。
ときおり蘇る私の軽井沢の原風景です。
以上
参考文献
長野県の歴史散歩(山川出版社)
軽井沢地図とお店(軽井沢新聞社)
一覧に戻る
ページTOP