【 寄稿 】

東北 ・ ・ ・ 私にできること@

南三陸町に行ってきました
Hidetaka Fujioka


 月日の経過するスピードは速い(なんてものではありません)。
 日本の東北太平洋岸を襲った地震と、あの、忌まわしい、体験したことのない”つなみ”が国土を、地域の人々をめがけて押し寄せたあの日。あの日からもうすぐ1年になります・・・・でも、あっ 今も揺れました(10:27)。

(バスで北上)

 8月21日朝5:30 新宿のバス乗り場に集合。我々ボランティア一行は、一路支援活動本拠地宮城県登米市に向かいました。メンバーは学生、外国人を含む一家で支援活動を体験する複数のファミリー、若き夫婦、週末を活動にあてるOLさん(風)、教育現場に体験を生かしたいと願う先生ら。それぞれ、支援の思いは異なりながらも、被災者への側面援助という軸を1本にした40余名を乗せたバスは東北道に入りました。志ある方々の属性は、後に活動で語り合うなかで判明したものです。

 車窓は那須を過ぎ、郡山から二本松にさしかかり、なんとなく福島。世界的固有名詞になった”ふくしま”に入ると、原発の影響はどうだろうか?とバス車内もやや硬い空気が支配しはじめます。多くの者がそれぞれの思いをもつなか、バスはひたすら宮城県に向けて走ります。
 多賀城から仙台、そして海岸寄りの若林区。地震と津波の被害状況が目に入ってきます。田んぼが、電柱が、作業小屋が未だ捨てられている。荒波に侵されてまだ復興の手が入っていないところもあるんだ。一段と身が硬くなり、心に緊張の糸が走りはじめます。

 やがて広く瓦礫が撤去され、硬く冷えた初秋の雰囲気が漂う石巻の海岸にさしかかる。
何もない視界に突然日本製紙の灰色の工場が現れる。そこには復興の手が。人影が。再起を目指す修復活動にふさわしい、全身がみなぎる、精力的な動きです。
 いいぞ!がんばろう!いずれ復興の証になるんだ。日本製紙石巻工場の綺麗な紙の生産と消費を心待ちにしよう。
 港をゆっくり一周します。何もありません。何事もなかったという風情。でも、元人家らしき跡には花が手向け(たむけ)られています。お盆直後ということで、津波で亡くなった方々への新盆の送りを済ませた花なのだ。5mおきに手向けられてあるということは、全ての家が被害に遭ったということ。津波にさらわれた方々のあまりの多さに、地面に差し込まれた花の数に声が出ない!

(活動拠点の登米市入り)

 そしてボランティア活動拠点の登米市の廃校になった小学校に入り、まずは寝る場所を確保。夕方、持参したおにぎりを胃袋に押し込みブリーフィング。先輩ボランティアから全般の説明を受け、その後各自が明日の活動を選択し、コース別の指示を受けます。自分はマニュアル車運転ができるということで、「車の移動と作業車での瓦礫撤去」。目的地と作業内容は南三陸町の漁師さんの家と漁業倉庫の作業と決まる。移動は40分、久々のマニュアル車の運転です。
 予定が決まったところで、近くの民家で入浴サービスをありがたく(ビールつき)頂戴し、持参の寝袋で就寝。
(翌朝  南三陸の作業場へ向かう)

 5:30分に目覚め、準備にかかります。マスク、ゴーグル、踏み抜き防止底付き作業用長靴で身を固め、備え付けのボランティアベストと鹿皮の特製作業手袋を持ち軽トラックで南三陸へ向かいました。道路は復旧し、何とかメインインフラは確保されている様子だが、側道は瓦礫がそのままです。車、冷蔵庫、子供用三輪車、布団。昨日の財産が一瞬にしてこのありさまに。我が身に置き換えた時、どんなことが頭をよぎるだろうか、考えられない。

 やがて、一番被害を受けた三陸鉄道の鉄橋と今はレールがない草の道が何もない平地にとけ込んでいます。沼にはアルミトラックが浮いたまま底に刺さって放置されています。車が流されただけですんだのか?運転手さんは無事であってほしい、と祈る気持でハンドルを握ります。現地作業基地に立ち寄り、更に班が分かれます。
 大きく迂回した取り付け道路と橋を渡り、三陸海岸の漁港に入り徐行。瓦礫置き場を確認。そこには全ての廃棄物が運び込まれている。ここに今日の作業で撤去されたごみも運びこまれます。
 一旦、漁港で作業場所と手順の確認を行う。隊長はアンドリュー君。端正なマスクで、日本語を流暢に話す若き欧州系外人です。テキパキと目的、作業内容の指示を受け漁港から20m程坂上の漁師さんの家(班)と、倉庫(班)に分かれます。
(南三陸・倉庫班の作業)

 倉庫班は二人の勇敢な女性が手を挙げました。ホント勇敢だな。学芸大卒の新進の女性教師、OL、そして二人の男子学生とで大きくて重たい漁網と牡蠣出荷用木箱、その他漁業用具の撤去、清掃、再使用可能かどうかの判定と再設置の作業。指揮は自分が行う。女性が率先して働く、働く。颯爽として勇敢で惚れ惚れする。鮮やかだった。どうか、貴重な体験を子供たちに語って欲しい。助け合う心を涵養してくれ。ありがとう。感謝だ。
 ヘルメットから、そしてゴーグルから流れる汗を滴らせ、ひと休み。家の持ち主の方からの差し入れだと、アンドリュー君から缶コーヒーを手渡される。”ゴクリ”喉を潤す。
 そうか、この家の持ち主、無事で良かった。どこにいるのか顔を出さない。そうか、酷い有様は目に入れたくない、忌まわしい過去の記憶から心身を逃避したいという気持か。わかるなー。ささやかな応援したからね。また、牡蠣の養殖頑張って再起してくれ。南三陸のカキフライを心待ちしよう。

(午後の作業)

 午後は坂を下り、全てを失った家の瓦礫の撤去作業。これは全員でかかることに。電気製品、窓枠、倒れた鉄骨は二人で運び、軽いものはそれぞれが自分の判断で分別します。生活用品ほか全てが水浸しのまま5ヶ月も放置されているのは何故?大型重機やら自衛隊が入れなかった場所、復興支援の優先度の低い場所が放置されている。小さな集落で、慎ましい暖かな生活と命の営みがあった場所。そういうマクロ的視野には入らないところが、今はボランティアの重要な復興支援ターゲッットなのだ。その支援活動の存在価値が大きくクローズアップされている。

(出会った人たち)

 作業中行き交う人は殆どいないが、通過する人はみな「ご苦労様」と声をかけてくれる。そうだ、坂の上のどこかで避難生活を送っているのだ。
 小さな子供を3人連れたお母さんが港をめがけて坂の上からゆっくり下りて通りかかった。何もない、こんな場所に足を向ける若いママさんの目的は何だろう?無人の港へ帰らぬ何かを呼びに行くのだろうか?取り返しに行く何かがあるのだろうか?4人の表情に悲惨さはない。時の経過による落ち着きなのか。子供の高めの声が聞こえる。普通の母と子の会話だ。
 ここは紛れもなく悲惨な天災が訪れ、何もかも奪った事件現場なのだ。事件にしてはあまりにもその範囲が広く、あなたたちの悲惨な体験は誰も知らない。全体は語られ世界中にその波紋は広がった。しかし個は語られない。
 ごめん 声もかけられない。言葉が見つからない。「一生懸命ごみを撤去するからね 頑張るからね」と心でメッセージを発することしかできない。
 「悲惨な事故を乗り越え、心の大きな大人に成長してくれ。壊れかけた地球を立て直すため、そしてそれを支える人間として一握りの知恵を出し、大きく育った体を駆使し、汗をかく活動をしてよ。もう会えないね。元気でね。約束だぞ。きっとだよ。」
 口からはついぞ発せられなかった言葉です。

(最後に)

 どこで様子を見ていたのだろうか。眼鏡の老人がビニール袋いっぱいの缶コーヒーを手に坂を下りてきた。
 「これはうちの敷地だ。作業ご苦労様」と声をかけ、隊長に袋を渡す。アンドリュー隊長は地元の新聞社をはじめ、マスコミで話題になった有名なボランティア指揮者なのだそうだ。短期間日本でホームステイし、本国に戻ったら最悪の出来事が起こった。いてもたってもおれず、即日本のためにとんぼ返りしてこの東北の支援に入ったのだとか。そう語る彼はひょうひょうとしている。爽やかな青年である。
 老人はじめ、あまり通りかからない地元の人も、皆、安心した眼差しで当方の活動を見守ってくれている。久々に人間としての存在感を味わった瞬間だ。そうだ、人間は人と社会に貢献する存在なんだと。お金が目的ではない、これだけ世界中の多くの人に支えられ復興がなされている。

 静かで透明度が高く、綺麗で何事もなかったような穏やかな三陸海岸は、ここ東京から近くて遠い日本でした。

2012.2.12




三陸の景色 

穴通磯(大船渡市)

数年前三陸の友に案内された場所。晴れた日は洞窟の間を観光船が通り抜ける。地元の写真愛好家が近寄ってきて「今だ」「波頭も撮れ」と、つきっっきりで指導?された懐かしい思い出がある。
恐るべし郷土愛!
三陸の海

十年以上も昔に贈ってもらった三陸海岸のテレフォンカード。添えられていた手紙と共に大切に保管していたもの。潮騒の音とともに三陸の人たちの笑い声まで聞こえてきそう。こういう景色が必ず戻ることを信じて・・・・


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