映画「ブラックスワン」を観て


                  N.T



 バレエ「白鳥の湖」のストーリーは、オデット姫が魔王ロットバルトに白鳥に変えられてしまうことから始まる。彼女は夜だけ人間の姿に戻ることができる。白鳥に変えられた美しいオデットに惹かれたジークフリート王子がこの呪いを解くため「愛」を誓おうとするが、オデットによく似せた魔王の娘オディール(黒鳥)の誘惑により、誤ってオディールを花嫁として選んでしまう・・・。


 バレエ「白鳥の湖」では、通常、オデット(白鳥)とオディール(黒鳥)は一人二役で演じられるが、この主役(プリマ)の座を得ようと、子供の頃から一心不乱に母子でバレエに全精力を注いできたのがナタリー・ポートマン扮する主人公ニナであった。
 そして、バレエ団の芸術監督トマスによる選考の末に、ニナはプリマのスワンクイーン役を見事に射止めるが、強い上昇志向があるものの純真無垢な性格のために王子を誘惑する黒鳥役が演じきれないジレンマと、性的に奔放な同僚のリリーの企みにより主役を奪われるのではないかという不安から強迫神経症となってしまう。

 映画の中、ニナが背中をかきむしる自傷行為の生々しい傷跡、指の爪に近い皮をはさみで剥ぐシーン、妄想にとらわれて異常行動をするシーンが何度となく描かれ、気味が悪く怖かった。

 このように「ブラックスワン」はバレエ映画というより、サイコスリラー的な作品であり、作中には多くの対比が表現されている。中でも、強い上昇志向のもとにプリマを維持してきたものの加齢によりプリマを外され自殺を図った女性ベスと、これからのプリマの地位を奪われまいとする主人公ニナが対比され、ともに精神的に病んでしまうというシーンから現代社会のストレスと葛藤が描かれており考えさせられた。ニナがベスの持ち物である口紅を盗んだことをベスに打ち明けるが、なぜ盗んだのかと詰問されたとき、「あなたのように完璧でありたかったから」とニナは答えた。ニナは、プリマの地位を得られず挫折した母親を「たかが群舞・・・」と蔑む反面、上昇志向と努力の末に勝ちとったプリマの座を維持できるか悩み苦しみ、前プリマのベスにあやかりたいと願うことが動機であった。

     
     
 私はグレン・グールドという天才ピアニストを思い出した。彼は32歳という若さでコンサート活動を辞めた。自然を愛し、カナダの田舎で孤独に音楽と向かい合う生活を送った。都会にうずまく上昇志向から訣別し、芸術至上主義を貫こうとしたのである。
 いかに努力をしても、他者からの評価が加わることで自己完結できないゆえ、完璧を追い求めると精神まで病んでしまうのだろうか? 自己の評価を上げようと考えた時、評価者に迎合すべきなのか、それとも自己の進む道が正しい道であると考えた時、精神が崩壊しようとも、その道を追求すべきなのだろうか?
 芸術家とは美しさだけではなく、孤独の闇を内包し、到達する境地を最終的には自分自身でしか見出せない、切なくて儚い孤高の存在に思えた。

    
     
 この作品のラストで、強迫神経症レベルを超え、精神障害による幻覚症状が出ていたニナが「ブラックスワン」を華麗に、そして妖艶に踊るシーンは大変インパクトが強く感動的であった。ただ、ニナの妄想の世界と現実の世界の区別が鑑賞者である私には判別しづらく、バレエの醍醐味である爪先・指先まで神経を研ぎ澄ました踊りが画像処理の多さのため洗練さに欠け、作品を幻想的にしようとしすぎたように思え、そこだけは残念であった。

 とはいえ、映画自体は賛否が分かれるかもしれないが、見応えのある作品だと思う。
 チャイコフスキーの美しい旋律の中、白と黒が対峙する映像美は凄絶なものであり、心に残る映画であった。

          

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