大 糸 線 の 旅

北アルプスの麓を走る

荒井 節子


     

 NHK 朝の連続テレビ小説「おひさま」の舞台を訪ねてみませんか?
 松本で蕎麦を食べて、安曇野で美術館、ついでに足を伸ばして白馬の絶景を写真に収める・・・そんな旅のプランはいかがでしょうか。
 鮮やかな双体道祖神、珍しい元禄の接吻地蔵、そして、安政年間の馬頭観音。先人たちの願いを背負って立ち尽くしてきた山の麓の神様は、今も穏やかな表情であなたを待っています。さあ、ご一緒にでかけましょう。

      
    
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    大糸線の歴史




 大糸線は、松本〜糸魚川(いといがわ)間105.4kmを結ぶローカル線です。
 1912年(明45)、地元出資で設立された私鉄の信濃鉄道は、ほどなく松本〜信濃大町間を開通させ、26年には電化を行い、電車運転が開始されました。
 これに遅れること数年、国鉄は大町〜糸魚川間の建設に着手し、大町側と糸魚川の双方から工事が行われました。大糸線という名称は、この時の工事に由来します。
 まず、信濃大町から糸魚川に向かった大糸南線は、順調に工事が進み路線を伸長。37年には国策による信濃鉄道国有化もあって、松本まで路線が繋がります。一方、糸魚川から建設の大糸北線は、戦争、敗戦による事情で途中で工事が中断。結局、大糸線全線が開通したのは戦後の57年で、長きの工事の末の開通となりました。87年、国鉄が民営化。大糸線は、南小谷(みなみおたり)駅を境界駅として、JR東日本とJR西日本に分割され、JR東日本区間は電化区間、JR西日本区間は非電化区間となって現在に至っています


   松本市内      




 松本駅に降り立ったアルピニストたちは、心急(こころせ)く様子で山に向かいます。奧穂高、蝶ヶ岳、常念、燕(つばくろ)・・・。こちらも急ぐ身ではありますが、松本は「おひさま」の舞台です。ちょっと松本城でも見て行きましょうか。ついでに民芸運動の盛んな中町を回り、何か食器でも買い込みましょう。

松本城(国宝)


 松本駅から約1キロ。北アルプスの山々を背景に天守閣が聳えている松本城は、その外観ゆえに別名を烏(からす)城とも言われて市民たちに親しまれています。四季折々、堀に映る城の姿は美しく、その凛々しい姿は、年月を経たものが持つ貫禄を充分に伝えてあまりあります。
この城は、武田信玄が信濃支配の拠点としたと伝えられています。しかし、武田氏が織田勢に追われると城主が交代、さらに、豊臣秀吉の全国統一に伴って石川数正が入城し、この時期に現在国宝に指定されている主要建築物が築造されたと伝えられます。
 廃藩置県の後、天守閣が競売に付されるという、今では想像もつかない出来事もあったそうですが、とにかく松本市民に護り抜かれて現在に至っています。大天守・渡櫓(わたりやぐら)・乾(いぬい)小天守は、いずれも国宝。一般公開もされていますが、城好きの方なら乾小天守の特別公開も必見です。

中町通り


 松本城下は、城の周辺に武家屋敷が置かれ、善光寺街道を中心に町屋が形成されました。なかでも、街道沿いの中町は、明治以降、大火に耐えるように土蔵造りの建物が多く造られ、その美しい景観は、川越同様「蔵の町」として多くの観光客を集めています。 
 
 この町で立ち寄りたいのは「松本民芸家具」と「ちきりや」でしょうか。「松本民芸家具」には、何代にも渉って受け継がれていけそうな、木の温もりとデザインの良さを併せ持つすぐれた家具が並べられています。また、「ちきりや」は、日本各地の民芸窯の作品が所狭しと並べられており、民芸ファンがひっきりなしに訪れるので有名です。今回、私は「ちきりや」で、大分の小鹿田(おんた)焼きの皿を購入。民芸窯の作品は、「用の美」もさることながら、値段が手頃で惜しげなく使える点も魅力のひとつで、何を盛ろうかと今から楽しみです。
 買い物のあとは、和菓子の「翁堂」でお土産を購入し、それからゆっくりとモダンクラフトのギャラリ ーをひやかすのも楽しみです。もし、あなたが「おひさま」に出てくる、あんな蕎麦やに入りたいとお思いでしたら、そば粉やわさびだけでなく、山菜やきのこも地元産(安曇野産)を使っているか、それを確かめてから暖簾をくぐると良いと思います。こだわりのあるお店は概して味も感じも良いものですが、蕎麦好きの信州人は、粉や、つなぎや、具の産地にまでとてもうるさく、店主もまた蕎麦談義で客と話に花を咲かせることを楽しみにしているのです。何ということもない蕎麦やに入って、ふと、壁の写真に目をやると、サイトウ・キネンの小澤征爾さんが皆に囲まれて笑っていたりして、蕎麦の香りと共に漂う文化の香りもまた、松本らしいところです。



  参考 

民芸運動



 柳宗悦(やなぎむねよし)が提唱した民衆的工芸運動の略語。柳は、名も無き工人がつくる銘のない道具にも優れた物があると考え、これを継続してつくっていこうと唱えるとともに、全国を回って優れた窯を世に広めた。松本には柳の賛同者が多く、民芸の家具や器を使ったレストラン、喫茶店、ホテルなど有名な店がいくつもある。
暮れなずむ松本城 中町遠景


   安曇野地区




  さて、松本駅に戻りました。本日は、南小谷(みなみおたり)駅で乗り換えて、糸魚川まで行くという遠大な計画のため、乗車するのは、特急あずさ3号南小谷行きです。松本駅10時27分発。松本からは、ほかに、各駅停車大糸線、リゾートビューふるさと号南小谷行きも出ています。目的に合わせて電車を選ぶと良いと思います。

白鳥(豊科駅)  


 犀川が流れる豊科(とよしな)地区は白鳥が飛来することで知られています。数年前の台風で河原が荒れ、今では他の地区にも飛来地が出来てはいますが、何といっても清冽な犀川の流れは美しく、その流れに映る一瞬の一枚を狙ってプロ・アマ問わず、多くのカメラマンが厳寒の河原で立ち尽くします。
 2月も末になると、まだ灰色の羽をした子供を中に挟んで、つがいの白鳥が家族で飛行訓練をする姿もほほえましく、3月に入って北へ帰る日には、上昇気流に乗った白鳥が、お礼を言うように上空で旋回して飛び去っていくという話などはまるで日本昔話を聞くようで、白鳥の世話をする地元の人から聞いた「一羽、一羽が区別できるよ」という言葉も、この地に立って見るとあながちオーバーでもない気がしてくる、優しい冬の安曇野風景です
安曇野 白鳥 1
写真提供 k・kawakami氏 
安曇野 白鳥 2
写真提供 k・kawakami氏 


穂高散策(穂高駅とその周辺) 


 穂高駅は、落ちついた感じの良い駅で「わさび漬け」の看板が目につきます。お土産を買いに覗いてみたいところですが、まずは近くの穂高~社でお参りをしましょう。
 
 穂高神社は、安曇野を開拓した安曇族の祖神が祀られている大きな~社です。昔から穂高の人々は、事があるとこの神社に参拝したようで、「出征することが決まったこの地の青年たちは、ここで戦勝祈願をしたものだ」と聞かされたことがあります。「おひさま」のスタッフも、ここを参拝したのでしょうか、大きなポスターが貼ってありました。
 さて、参拝をすませた後に向かうのは、安曇野のシンボル「碌山美術館」です。 萩原碌山(はぎわらろくざん)はロダンに学び、日本の近代彫刻の礎を築いた人物です。30歳という若さで世を去りましたが、没後半世紀近くを経た1958年(昭和33年)、全国30万人の寄付によって、出身地安曇野に美術館が建設されました。尖塔に鐘を抱き、赤レンガの壁に蔦の絡んだ建物はそれ自体が美しく、中に飾られた作品は、30年という生涯が凝縮されたように生命力に溢れています。
 碌山は、安曇野の素封家であり後に新宿中村屋を創業した相馬愛蔵の妻、黒光(こっこう)を、終生慕い続けたと言われています。絶作となった「女」(重要文化財)は、質感の豊かな素晴らしい作品ですが、モデルさんを使って創られたにも関わらず顔が黒光そっくりで、完成したその像を見た黒光の子供たちが「母さんだ」と叫んだと伝わっています。届かぬ想いを胸に秘めて苦しい方にお薦めの美術館です。一度足を運んでご覧になりませんか。
 「碌山美術館」を後にしたら、今度は周辺を散策してみましょう。手入れが行き届いた田が整然と広がっている「掘金地区」は、春ともなると、水を張った田んぼに雪を被った常念が映り込んで、日本の原風景のような雄大にして心和む景色が現れます。歩くのも、自転車で走るのも気持の良い場所です。田の端や、木の下に佇む有名無名の多くの「道祖~」は、疫病退治を願ったもの、五穀豊穣を祈ったもの、はたまた子育て、旅の安全など願いの種類も様々で、その数の多さは、同時に安曇野の風土の厳しさをも伝えています。地区の人々は、今でも花を供えて手を合わせ着物に彩色を施して「俺らが神様」を大切に護っていますが、そんな日常を見るにつけ、暮らしの中にある何気ない祈りそのものがこの安曇野の魅力、他人(ひと)を惹き付けて止まないのだと得心します。
 
 家族連れには、日本一の規模を誇る「大王わさび園」や、信濃松川にある「安曇野ちひろ美術館」もお薦めですが、二つともあまりに有名ですから、詳細な説明は省きます。共通するのは、どちらも、施設の周囲が美しいということで、「大王わさび園」の傍らに流れる疎水には、黒澤明監督の「夢」に使われた水車が今もコトコト回っていますし、「安曇野ちひろ美術館」は、夏ともなると裏庭いっぱいに綺麗な花が咲き誇ります。花は、夢中になって絵本に手を伸ばす子供たちの姿に、よく似合います。


穂高神社 碌山美術館
春の掘金地区
写真提供 k・kawakami氏 
彩色道祖~
地区のこどもたちが毎年着物を塗り替える
元禄年間の接吻地蔵
明科・池桜地区の山中にある
左の地蔵が安置されている庵。今はただの山中だが、昔はどこかへ通じる街道だったらしい。レプリカが龍門淵公園にある
大王わさび園 安曇野ちひろ美術館

 さて、特急あずさ3号は、信濃大町に向かって再び走ります。大町市は、安曇野市と白馬村に挟まれて少々地味な街ですが、アルピニストなら知らない人はいない有名な山岳都市です。黒部ダムへは、この先にある扇沢から向かいます。
 湖畔の緑を水面(みなも)に映して美しい仁科三湖(木崎湖・中綱湖・青木湖)を車窓に見たら、ほどなく白馬に到着です。


木崎湖 町中を走る大糸線


   白馬村(白馬駅)




 1998年冬季オリンピックの会場になった白馬村には絶景スポットがたくさんあります。あるいは、絶景のロケーションに白馬村がある、と表現した方いいかもしれません。ただ、厳しい気象条件の下にあるこの絶景は、出掛けたから遭えるという簡単なものでもありません。今までにも何度かこの村に足を運んでいたというのに、実は私も白馬三山がこんなに近くにあることに最近まで気がつかなかったほどでした。ですから、運よくそんな素晴らしい景色に出遭えたときには・・・・・・・・周囲の誰もが言葉少なくなってしまって、皆ただ黙って山を眺めてしまうのです。
 ここではどうぞ、写真をご覧ください。その折りの幸福感を一緒に感じていただけたら、嬉しい限りです。
野平集落から見た白馬三山
左から白馬鑓 杓子岳 白馬岳
大出の吊り橋から見た白馬三山(冬)
牛方宿(江戸時代のもの・小谷村)
千国街道沿いにある牛方と牛が泊まった宿
安政年間の馬頭観音と北アルプス
大出の吊り橋展望台から白馬三山を仰ぐ(春)
四十九院のこぶし
春の白馬村
水田と北アルプス
青鬼(あおに)集落の棚田から白馬五竜岳を仰ぐ
江戸・明治の景観が残る山の中のこの集落は
現在は歴史的景観保存地区として、写真愛好家や観光客を集める
栂池自然園の水芭蕉


   南小谷から糸魚川へ

 
「3月11日」を経て、今、旅の終わりに思うこと」



 11時42分、特急あずさ3号は南小谷駅に到着。そのまま階段を上ってJR西日本管内に移動し、待ちかまえていたJR大糸線糸魚川行きに乗車します。
 1両編成の大糸線は「ピッピー」と、悲鳴のような汽笛をあげて、姫川を下っていきます。周囲は一面の緑。「パスモ」とか「スイカ」とか、とにかくJR東日本管内のものは、西日本管内のこの車内では使えないらしく、車掌さんが「現金でお願いします」と、乗り込んできた乗客に声を張り上げて回っています。乗客の半分が観光客で半分が地元の人。「鉄ちゃん」とおぼしき人も数名いて、一見すると、ローカル線ならどこにでもある実に平和な光景です。
 車窓に目をやり、私は今、「3.11」を思い返しています。
 未曾有の災害をもたらした「3.11」。TVを見ては涙を流し、被災地にいる知人の無事を確認しては泣けてくる日々。誰もが人を悼み、日本の将来を憂えたに違いありません。
 気持の落ち着ける場所を探して、北アルプスをよく見に来ました。雪深い「塩の道」で見た牛方宿や石仏群。飢えや寒さ、あるいは日照り。いつの時代だって生きることは厳しかったのだと改めて教えられた気がしました。
 山の斜面いっぱいに咲く福寿草に出会ったこともあります。昔からそうやって旅人を励ましてきたのでしょう、まるで山の集落で出会ったお年寄りのように優しくて、笑いかけてくれているようでした。
 白馬では、長野オリンピックのジャンプ競技当日、悪天候の中を視界ゼロで跳び続けたテストドライバーたちの話を思い出しました。あのとき、名もない彼らの胸にあったものは、ただ母国への想いだったのではないだろうか。そして、彼らの頑張りで中断された試合が再開され、あの日、日本は金メダルの喜びに湧いたのだった。
 「そうだった」、私は再び思います。幸せなことに私たちは先人の苦労と努力の末に生かされて今ここにいる。私たちは、私たちを送り出してくれた先人たちへの感謝をこめて「日本」の復興を願わなければいけない。そう、「おひさま」の主人公があの敗戦を生き抜いたように、私たちもまた愛するもののために良き日本が来ることを信じ続けて。

 姫川の川幅と空が広がって車掌さんがもうすぐ糸魚川だと告げています。終着駅を目の前にして私の胸に湧き上がってきたものは、旅の終わりのいつもの高揚感ではなく、思ってもいなかった(柄にもない)覚悟のような静かな気持ちでした。
 「三陸鉄道が再興したらもう一度乗りに行こう。久慈から乗り込んで大船渡の盛駅まで、あの海岸線をゆっくりと」。 実は、次回のローカル線の旅を三陸鉄道と決め、南リアス線(盛駅〜釜石)を取材したところで、北リアス線(宮古〜久慈)に乗らないうちに津波に遭ってしまったのでした。「記事を楽しみにしているね」、そう言って盛駅で手を振ってくれた大船渡の友たちの顔が浮んできて、私は心に誓います。「いつか必ず会いに行くね、車ではなくいくつも電車を乗り継いで」。
 電車が糸魚川駅に到着しました。長い旅が終わり私は初めての駅に降り立ちます。少し海に向かって歩いてみましょうか、「やっぱり来て良かった」と思いながら・・・12時44分、ドアが開きます。

塩の道(千国街道) 塩の道の石仏群(小谷村)
4月半ばで、この雪の多さ
福寿草(小谷村) 白馬ジャンプ台を望む
周囲の緑を映しこんで流れる姫川 糸魚川駅にある翡翠のオブジェ

                      
  参考 

塩の道 


 糸魚川から松本城下まで120キロを結ぶ千国(ちくに)街道の別名。塩や海産物を運んだことからこう呼ばれる。豪雪地帯を貫く道は想像を超える難所の連続で、行き倒れた人を悼むのか、石仏も多く見られる。


三陸鉄道



   
 第3セクターによって運営されている。南リアス線は大船渡盛駅から釜石まで、北リアス線は宮古から久慈まで。中の釜石から宮古はJR山田線で繋がれていたが、今回の津波で不通区間が三分の二を占めてしまった。


以上




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