NHKドラマの舞台に詳しくなりましょう。




スッタフより提供された数枚の写真から、上のような題名の企画が生まれました。ご当地を愛するスタッフをナビゲーターに、今話題の舞台をご案内いたします。
ドラマへの親しみがぐっと深まります。さあ、出掛けましょう。♪♪♪

★ 09年・NHK朝の連続ドラマ 「つばさ 」  川越 ★

★ 10年・NHK大河ドラマ    「龍馬伝」  高知 ★


 09年・NHK朝の連続ドラマ「つばさ」の川越    
川越の歴史 1457年、関東管領が古河公方・足利成氏に対抗するために家臣の太田道真・道灌父子に命じてつくらせたのが川越城の起源です。戦国時代にはこの城を巡って何度か攻防もありましたが、徳川家康が関東に移る際に川越に重臣の酒井重臣をあてたことで、この城下町は大きく発展していきます。ことに川越藩主・松平信綱の時代には、野火止用水開削、川越城下の上下十ケ町制度化、川越祭り開始、川越街道と新河岸舟運(しんがししゅううん)整備などで、人びとの生活は大きく変化しました。町人はこの新河岸舟運で物資を江戸から運び、あるいは川越の特産を江戸に運んで、財を蓄えていきました。川越は「江戸の北の守り」であり、「江戸への物資供給地」として徳川幕府から重要視され、十七万石の城下町として現在に繋がる繁栄をみるのです。
川越からは後に老中、大老格、大老など、幕府の要職についた藩主も多く出ています。
アクセス 東武東上線  池袋から川越駅   急行30分
JR埼京線   新宿から川越駅   通勤快速49分
西武新宿線  新宿から本川越駅  急行で1時間

(ひとくちコメント)
本川越駅から小江戸巡回バスが出ています。乗り降り自由で1日フリー乗車券500円
大変親切な解説をしてくれます。 
藏造りの町並み 仲町交差点から北に向かって札の辻交差点までを「蔵造りの町並み」と呼び、川越を代表する観光名所です。国重要伝統的建造物群保存地区(1999指定)。
札の辻近くにある大沢家住宅(国重文)が1893(明治26年)年の川越大火のときに焼け残ったことをきっかけに、蔵造り住宅がこの地域に多く造られました。今も多くの蔵造りの家が残り、美しい町並を誇っていますが、大火後の1893年に建てられた川越藩御用達の老舗菓子舗「亀屋」は袖倉(火災の類焼から母屋をまもるもの)を持つものとしては現存する唯一のものとして一見の価値があります。仲町交差点角にあります。

(ひとくちコメント)
亀屋の代表的な銘菓「亀の最中」「亀どら」は上品な甘さで、とても美味しく、昔から手土産に持って行くと喜ばれていました。また、芋せんべいや、芋の甘藷あられは、小さいころから、おやつとして食べており、緑茶だけでなく、紅茶や珈琲にもよく合います。
時の鐘 高さ16.2mの川越のランド・マークです。川越藩主・酒井忠勝のころにつくられ、その後大火で焼失し、松平信綱のときに再建されました。1893(明治26年)年の川越大火でも焼失しましたが、翌年、川越の鋳物師によって江戸時代そのままに再現されました。美しい姿は江戸当時のままに、今でも1日に4回、時を知らせます。平成8年に環境庁より「残したい日本の音風景100選」にも選ばれました。

(ひとくちコメント)
大晦日の夜空に響きわたる「時の鐘」の音を聞きながら、喜多院に初詣に向かう地元民も多く、私もそのうちの一人でした。子供の時から聞いている時の鐘の音は、優しい音で、心を落ち着かせてくれます。
菓子屋横丁 江戸時代、養寿院の門前町として栄えた場所にあります。
明治の初め、鈴木藤左右衛門がこの地に住んで駄菓子を製造したのが始まりといわれています。明治の後半からのれん分けによって次第に店が増え、大正12年の関東大震災で焼け出された神田・浅草・錦糸町の菓子問屋がこの地に移ってきたことでさらに盛んになりました。最盛期の昭和初期には70余店が店を連ねていたそうです。

(ひとくちコメント)
現在、菓子屋は20数店。最盛期に較べると少ないようですが、連日多くの観光客で賑わっていて驚きます。金太郎飴、水飴、ゼリービーンズ、変わり玉、生姜糖、五家宝etc、多くの種類の菓子は見た目も華やかで楽しく、しかも伝統ある店が手作りするのですから、美味しいことも勿論です。

近くのヘルス・センターに掛かる大衆演劇の一座が、芝居初日の土曜日にはここを練り歩くそうです。そういう庶民的で楽しい雰囲気がここの良いところです。
川越祭り この祭りを語らずして、川越は語れません。
元来は川越の総鎮守、氷川神社の祭礼行事に由来しますが、川越藩主・松平信綱が氷川神社へ神輿や祭礼用具を寄進して祭礼を奨励したことをきっかけに現在に繋がる川越祭りが始められたといわれています。1698年に初めて踊り屋台がでて以来、年々盛大になり、天保年間には当時の川越十ケ町すべてが山車の上に人形をのせるようになったそうです。
現在は10月の第三土、日に行われています。
札の辻近くに祭り会館があり、山車を見ることもできますが、リアルタイムで見る山車にはかないません(左の写真)

(ひとくちコメント)
昔から地元の人に愛され続けてきた祭りで、川越祭りの時期になると、街中が川越祭り一色に染まります。見所は夜に行われる「曳っかわせ」です。夜の街に山車と山車が向かい合い、お囃子や踊りの競演を行う時には、山車のまわりに大勢の人が集まります。威勢のいい掛け声や、お囃子を聞いていると、見ている人の気分も盛り上がってきます。特に、蔵造りの町並みを山車が通る姿は圧巻です。
中院   1301年には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心でしたが、江戸時代に、後に述べる喜多院の天海が家康の信頼を得ると、中心は喜多院に移り、現在は関東八檀林の一寺院となってしまいました。狭山茶発祥の地だそうです。

(ひとくちコメント)
大変たたずまいが美しい寺です。境内に見上げるような金木犀の木があり、季節が合うと、満天の星のように咲く金色の傘の下で極楽浄土に来たかのような甘い香りを嗅ぐことができます(満開は10月10日前後か?)。庭も鐘楼も素敵です。
喜多院 川越大師
慈眼(じげん)大師天海が徳川家康の信任を得ると、中院に代わって急発展した寺です。「北院」と呼ばれていましたが、1612年に家康から「東叡山喜多院」の名をうけ、1613年には関東天台宗580余寺の本山とされました。
境内に江戸城から移築された建物があり、3代将軍家光手植えの「枝垂れ桜」「家光誕生の間」春日局の「化粧の間」など、見所も多くあります。

(ひとくちコメント)
初詣、お宮参り、七五三、などで一年中賑わっています。
江戸城から移築された建物は庭も美しく、桜の季節に庭を見ながら風に吹かれるのも良いと思います。
五百羅漢 喜多院の敷地内にあります。
江戸時代、飢饉や社会不安を背景に豊穣祈願、子孫繁栄などを願ってこれらが造られたと考えられてます。中に1体は自分の顔に似たものがある、と言われています。

(ひとくちコメント)
羅漢の中には明治初期の廃仏毀釈運動で毀されて不完全なままのものもあります。大きな時代の流れの中で、庶民の願いであるこういうものが簡単に毀されてしまって残念です。
〜 番外編 〜〜 
どこへ行っても江戸を感じる川越ですが、現代っ子も元気にやっています。
TVや映画で有名になった、ご存じ「ウォーターボーイズ」のご紹介です。
埼玉県立川越高校  
ウォーターボーイズのモデルとなった学校です。地元では、「川高(かわたか)」の愛称で親しまれており、文化祭の来場者は1万人を超えます。
水泳部が披露している(ご存じ)シンクロは、全員の演技が揃っていているばかりでなく、エンターテイメント性も高く、男性チームならではの迫力もあって見ている人も思わず手拍子をするほど。特に、何段にも重なる櫓が完成する瞬間は、大きな歓声が!!!
大変懐かしく、今となると貴重な思い出です。


                                               
NHK 2010年大河ドラマ「龍馬伝」の舞台  高知
龍馬


 IN


土佐
山内家臣が住む高知城下は、城を中心に上士の住む郭中と、郷士や足軽が住む上町・下町に分かれていました。坂本龍馬は、1835年(天保6年)、郷士や足軽、武家奉公人の邸宅が立ち並ぶ上町に坂本家の次男として生まれました。兄の権平のほかに千鶴、栄、乙女という姉がいたそうです。
坂本家の本家は才谷屋といい、城下屈指の豪商として知られていましたが、分家の坂本家も上士を相手に質商などを営む裕福な家でした。領地高百六十一石八斗四升。各地より領地米があがり、経済的には何不自由のない生活だったそうです。

12歳の年、龍馬は「学問」を志して寺小屋に入りましが、ほどなく退塾。次に「武」を志して近所の小栗流日根野弁治の門をくぐります。剣の腕を上げることで、次第に自分に自信をつけたといわれています。

龍馬は脱藩するまでに2回江戸に出ています。いずれも剣の修行のためで、千葉道場に入り北辰一刀流を学んでいますが、この2回の江戸滞在が龍馬に大きな影響を与えたことは想像するに難くありません。ことに、1回目の江戸滞在中には黒船の来航があり、大騒ぎのなか、土佐藩は遊学生まで駆り出して品川付近の警備にあたりました。当然、遊学中の龍馬もその任にあたったといわれていますが、こういう経験は、若い龍馬に先を見据える感性を培わせたに違いないでしょう。また、各地からの遊学生が江戸に集まっていたこの当時、若者たちは藩や身分の上下という枠を超えて熱っぽく語り合い、視点を藩から日本へ、日本から外国へと広げていったに違いありません。封建時代の縦の関係から横の関係が生まれていった時期でもあると思います。

1861年(文久元年)、ささいな口論がきっかけで、後に「永福寺門前事件」と呼ばれる、上士と下士の刃傷事件が起こります。下士側に不利のまま一応の決着がつけられたこの刃傷事件は、日頃くすぶっていた上士と下士の対立に油をそそいだ形となり、土佐勤王党結成の伏線のひとつになったといわれています。この年の8月、武市半平太、土佐勤王党結成、9月には龍馬が土佐勤王党加盟。

1862年(文久2年) 龍馬28歳 沢村惣之丞とともに土佐藩を脱藩!!!
一説では武市半平太と考えが相容れなかったとも言われていますが、脱藩という重罪を犯さなければならなかった明確な理由は見つかっていません。しかし、土佐から伊予へ抜けて瀬戸内海を渡った龍馬の眼差しは、きっと瀬戸内海のずっと先を見据えていたに違いありません。まことに龍馬は武市半平太が土佐弁で表現した通りの「あだたん(収まりきれない)奴」だったということなのでしょう。
龍馬の人生の大きな転機となる勝海舟との出会いは、この年の秋のことです。
龍馬像
 IN
桂浜
昭和3年に完成した、高さ5.3m、台座を入れると13.4mの高さの大きな像です。

聞こえてくる大きな波の音がとても印象的でした。
横浜で生まれ育った私にとっては、太平洋の大きな碧い海の広がりも、
まっすぐに続く白い砂浜も、打ち寄せる高く白い波も、立ち並ぶ松の木々も、全てが新鮮で美しく感じられました。

龍馬像は、そんな桂浜を見下ろす高台に建っています。
写真や映像ではお馴染みのこの像ですが、実際に目の当たりにすると、見上げる高さ、そのスケールの大きさに圧倒されました。
どこまでも続く大きな海・・・この海が遙か外国とつながっていることを感じながら、龍馬は幕末の時代を過ごしていたのでしょうか・・・。

2010年の大河ドラマの主人公、観光客で賑わいそうなこの地ですが、また訪れたいと思いました。
映画、TV
の龍馬
戦前も龍馬の映画は作られていますが(板東妻三郎など)、戦後、龍馬がこれほど有名になったのは、やはり、司馬遼太郎がサンケイ新聞に掲載した「龍馬がゆく」ではないでしょうか。昭和37年6月から始まり、41年5月に完結しています。
映画でも、戦後、有名俳優が龍馬を演じていますが(石原裕次郎、中村錦之助など)、NHK大河ドラマに限っても多くの俳優が演じています。
昭和43年大河ドラマ「龍馬がゆく」で、北大路欣也が龍馬を、また、「勝海舟」で藤岡弘、「花神」で夏八木勲、「翔ぶがごとく」で佐藤浩市と、当代の人気俳優がそれぞれに龍馬を演じています。どうして、こんなに龍馬は人気があるのでしょう。
思うに、
@脱藩という重罪を犯しても藩の外に出ていきたかった進取の気性、A勝海舟のような大物からも知遇を得る人間的魅力、B士でありながら海援隊を結成して利を追求する柔軟性、あるいは合理性、C薩長連合の布石を敷くという政治的センス、D龍馬を取り巻く女性、そして、最後に、E維新を前にして非業の死を遂げる悲劇性。こういう様々なキーワードが絡み合って、龍馬は今も人々を魅せるのではないでしょうか。
2010年、福山雅治はどんな龍馬像を見せてくれるのでしょうか。福山ファンならずとも期待したいところです。
N・O  A・H
写真協力  A


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